私の2024年の目標に「年間45冊読む」というのがある。本を読む人にとったらたったの45冊?と思われると思うが私にとってはチャレンジの数値目標だ。すっかり活字から遠のいていた私が、また読書を始めたきっかけが「古内 一絵さんのマカン・マラン 二十三時の夜食カフェ」だ。この本が無かったらそもそも2024年の読書の目標も立ててなかったと思う。この本を紹介してくれた友人には感謝しているし、今ではお勧めの本を紹介しあう本フレンドにもなった。
子供の頃みんなが持っているゲーム機を買ってもらえなかった。楽しみはテレビを見るか本を読むか、それしかなかった。母は漫画には口を出さなかったので漫画を読んでいても怒られなかったが、やはり本は好きでよく図書館に通っていた。子供の頃どんな本が好きだったかあまり覚えていないが「ミヒャエル・エンデのモモが好きです。」と言えば大人が喜ぶので大して好きではないのにそう答えていた気がする。本当に子供の頃から小手先で生きてきたなと思う。ただ実際は未解決事件や、都市伝説系、ホラー系が好きで読んでは夜になると「金縛りになったらどうしよう、肩から顔が生えてきたらどうしよう」と本気で悩み睡眠時間が減っていた。怖いことが大嫌いなくせに、怖い本が好きだったのだ。特に小学生の時、キョンシーシリーズが大好きでキョンシーの本を読まなきゃいいのに読んでは怯えていた。そのせいか大人になってもキョンシーに追いかけられる悪夢をよく見ていた。そういえば最近見ないな。その夢。
高学年になるとすっかり本ではなく「漫画」を読むことが多くなりこれと言った読書の習慣は無くなっていった。中学生に入ると雑誌はせっせと買っていたが漫画もあまり読まなくなっていった。社会人なりたての頃はまだ新聞を読む習慣が世間でもあり、日経新聞を小さく器用に折り畳み通勤電車の中で読んでいた。いつしか新聞も読まなくなり、多少は時々、話題の本は読んではいたが、読書とは程遠く活字からすっかり距離を置いていた。
本は嫌いではない。本が嫌いなわけではなく、私にとって本は娯楽ではなくどちらかというと暇つぶしの類だったんだろうと思う。スマホという最高級の暇つぶしの機械を得てからますます本を読む機会がなくなった。スマホさえあればSNS、動画、音楽何でもある。もう、スマホ様様だ。
ただ、40歳を超えてからなんだかスマホをずっと見ていられなくなった。目が疲れたり首も痛い。何より頭が疲れる気がするのだ。物覚えも格段に悪くなり、固有名詞もサッパリ出てこなくなった。そうです、老化です。不惑して老化を実感するようになりました。しかもひしひしと、明確に。そんな老化を感じるようになりスマホで暇つぶしを全てお願いすることが少し難しくなったのだ。
加えてコロナ渦で少し読書の習慣が出来たのもよいきっかけになったと思う。テレビも飽きた、飲みにも行けない、ネットフリックスを見始めると止められないし夜更かししちゃう。何より時間はたっぷりあるのだ。そんな中で好きなアガサクリスティーを読み始めた。昔読んでいたけれどもう一度読もうと思って何冊も買い集めた。(アガサはポアロが好き。)ちょうど時期的に読書が身近になったのだと思う。
そんな時に、ブランチとしゃれた名前を付けた友人とのおしゃべり大会を開催していた。ある友人が「今、マカン・マランっていう本を読んでるの。アンは食べる事大好きだし読んでみたら?」と言ってきた。そこはブランチである。本の話題なんておしゃれだわ。私は「へ―そうなんだ。今度読んでみようかしら。」なんて答えた。そんな気も無いのに。そのタイトルだけではどんな本か全くわからない。とにかく食べ物は出てくるらしい。「へー」とは答えたが実際は「ふーん」としか思っていなかった。その時はそれだけで別の話題に移った。タイトルさえ覚える気も無くその時は終わったのである。
そこから1年ほど経ち、ふと、本当にふっとその時の会話を思い出した。読んでみようかなと友人にタイトルをもう一度確認し、早速図書館で予約をした。マカン・マランというどんな内容なのかもわからない本を手に入れた私はあっという間に読み終わりまさかの読書という旅に出ることになった。
内容はぜひ読んで頂きたいのだが、私「では」絶対に手にしなかったであろうジャンルだった。私は先述したようにミステリー系が好きでサスペンスや推理小説なんかはちょくちょく読んでいた。ドキドキハラハラするタイプが好きなのだ。。反対に心が落ち着くタイプや「泣ける」なんてポップに書かれている本は避けていた。そんな子供だましに私の心は動かされないわ。的な感覚があった。しかしこの本は読み進めるたびにじわじわと心が温かくなる感覚を書感じた。うまく言えないけれど心がじんわりと、まあるくなる感覚。そして読み終えると目を閉じて深呼吸しながら世界観、空気感、雰囲気を味わった。本を読み終えてそんな感覚になったのはかなり久しぶり、もしくは初めてかもしれない。かといって、自然の中で落ち着いて読むのではなく、都会の片隅で、夜中に自分のベッドの上でひっそりと静かに読むのが相応しいような本なのだ。あっという間にシリーズを読了したが、シリーズ最後の1冊はなかなか読み進めることが出来なかった。これを読んでしまったらもう終わってしまうと思うと寂しかった。
もちろんこの本が面白いのが一番だが「自分の知らない世界に出会った」事が読書にはまった一番の要因だと思う。今までは「自分が」読みたい本を読むことで自分の世界を楽しんできたのだが、本が「暇つぶし」から自分の知らない世界や感覚を連れて来てくれるワクワクする「趣味」に変わったのだと思う。この世の中自分が知らない世界がまだまだ広がっている、自分の価値観や好みでは出会えない世界がある。目の前が思いっきり広がった気がした。自分の本棚だけが本の世界だと思っていたら目の前に大海原が広がっていたのだ。とても当たり前のことだけど私にとっては視界がクリアになったくらい衝撃的だったのだ。今ではジャンルや好みに関わらず雑食のように読んでいる。好みに合わなかったら途中で読むのをやめればいい、面白かったら儲けもの。そんな軽い感覚で読む本を選んでいる。今から読む本が私の世界を変えてくれるかもしれない。そんな期待を抱きながら新しい本を手に取る。
その友達とはすっかり本を紹介しあう本フレンドになったのだが彼女が「本だって、年取ったら目が悪くなって読めなくなるよ。本を楽しめるのも今のうちだよ。限りがあるんだよ。」とけしかけてくるのだ。本当にそうだ。あと本を楽しめるのは何十年くらいあるのだろうか。何冊読めるのだろうか。何度素晴らしい出会いがあるのだろうか。
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